野球・バッティング理論|広澤克実氏を知れば、バッティング技術が上がる!?その理論に迫ろう!①

あなたは、真の"広澤克実"を知っていますか?

こんなタイトルから始めることは、広澤さんにとって失礼なことかもしれません。 でも、敢えて問いたい。一体どれだけの人が「極・野球人。広澤克実」の凄さを知っているのか!

こんなことを書く私自身、広澤さんがどれだけスゴイ野球選手だったのか知りませんでした。 野球の実力だけでなく、「バッティング理論のレベルの高さ」と、彼の心の中にある「野球に対する誰にも負けない熱い気持ち」を知りませんでした。

そんな私が、直に広澤さんの話を聞くチャンスを頂き、その人柄に触れ、理論に裏打ちされた輝かしい成績を振り返っているうちに、「極・野球人。広澤克実」の事を書きたいと思いました。 もちろん、広澤さんが直接書いたり話したりする内容には程遠い中身ではありますが、私が直接見て、聞いて、感じたすべての事を書いていきたいと思います。

少し話が飛びますが、広澤さんは全国で少年野球教室を定期的に開催されています。毎回大勢の少年たちが参加するこの教室は、広澤さん自らが熱心に指導することで有名です。

以下の写真は、宮崎県の田野町で開催された時の写真です。広澤さんの野球にかける熱い想いが伝わります。

インコースの打ち方指導

↑インコースの打ち方を指導する広澤さん。

明治大学時代から、すでにスター選手だった

みなさんご存知のとおり、広澤さんは明治大学野球部の出身です。 明治大学野球部。 余談ですが、当時の明治大学野球部は、東京6大学野球の中でずば抜けて厳しい練習と規律を強いられることで有名でした。

今では考えられないくらい、イジメと言っても過言ではないほどの「しごき」があったそうです。大手の有名企業は、「明大野球部出身の人間なら、どんなに厳しい社会生活にも耐えられるはずだ」と太鼓判を押し、こぞって採用していたそうです。

そのとてつもなく厳しい野球部の監督が、「御大 島岡吉郎監督」でした。鉄拳制裁も辞さない名物監督。教え子から恐れられ、いつしか「御大」と呼ばれるようになりました。

島岡監督に声を掛けられるだけで、選手は感激し、涙するほど、その存在は絶対的なものでした。 その島岡監督にスパルタ教育を受け、厳しい練習を課せられてきた広澤さん。 後に、その練習の厳しさから「何度も逃げ出そうと思った」と振り返られています。

当時の広澤さんと同級生で、元明大野球部の方にこんな話を聞きました。

「俺も甲子園である程度活躍して、セレクションで明大野球部に入った人間だから、それなりの自信とプライドはあった。そんな選手ばかりだった。でも、広澤の "素振り" を初めて横で見た時、バットを振る【速さ】と【強さ】で、バットが風を切るスゴイ音がした。本当に、【ズバッ!】と音がしたんだ。あれを聞いたらみんな自信を無くしてしまってね。こういう選手がプロになるんだと実感したよ。」

その方の言われたとおり、広澤さんはすぐに頭角を現します。1983年に、史上二人目の【2シーズン連続首位打者】を獲得翌1984年のロサンゼルスオリンピックの代表選手に選ばれると、その決勝戦で本塁打を放ち、金メダル獲得に大きく貢献されました。

一流プロ野球選手になるための素地は、島岡監督に出会えた明治大学野球部で育まれたんですね。 こうして、広澤さんは、鳴り物入りでヤクルトスワローズに入団します。 そこで出会ったのが、野球の師とも言うべき「故・野村克也」監督その人でした。 続きは次回!

⇒広澤克実さんが少年の頃からバッティング練習で使っていたバットとは?

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